ぱそこん歴
最終更新日 2007.12.17 21:16
〜小学校の頃 (〜平成6年)初めてパソコンにさわったのは幼稚園の頃だと思う。当時ゲーム機(スーパーマリオブラザーズ)がブーム時だったと思うが、親はゲーム機を買ってくれず仕事で使い古されたFUJITSU FM-8を与えられた。(しばらくは興味を持たなかったらしい) 最初の頃はパソコンの「パ」の字も知らなかったし、漢字も満足にも読めなかったため、マニュアルを読むことができない。また、父親も何も教えてくれなかった。しかし、手元にはゲームの写真付のパソコン雑誌が大量にあったのだ。それで意味も分からずプログラムを入力するようになったのは小学1,2年生ぐらいだったとおもう。 ひたすら、意味も分からずプログラムをひたすら入力していくと、何となく勘だが、プログラムの意味が分かり始めるようになり、既存のゲームを改造するようになったのは、小学2,3年ぐらい。 それ以降、学校で漢字とかを習い、有る程度の漢字が読めるようになり、リファレンスマニュアルも読むことが出来るようになり、爆発的に意味が分かるようになった。 やっぱり、この頃って、ゲームに興味がありして、中古でFUJITSU FM-7 と中古ゲームをセットで1万円(長い間掛けてためたおこづかい)で買い、それでゲームに没頭し始めた時期があった。ちょうどFM-7はPSG音源内蔵だったしね。そのなかに有ったドアドアというゲームががマイブーム。母親と一緒に毎日やっていたかもしれない。load してぴーがー、カチャン、ぴーがーー。とロードしていたり。待ち時間がワクワクとして楽しかった。ゲームが出来るまでに5分ぐらいかそれ以上掛かったからねぇ…。 この時代は、カセットテープだった。ちなみに、BASICのみで書かれていれば、load & save で ゲームのコピーが簡単に出来たが、マシン語で記述されているやつはこの方法では簡単には取れない。となると、マシン語をどの番地にロードさせ、保存ってすれば、できるが、広範囲であちこちに利用されているし、簡単にはコピーが取れず、すっごく手間が掛かった時代である。で、そこで、思いついたのはオーディオ機器をつかってコピーを取ればいいじゃん?とおもい、実行に移ってみる。 レベル調整の出来る据え置き型のオーディオ用カセットテープレコーダーあったため、それで、試行錯誤をし、レベル調整をし、ダビング。MAXでやれば成功する確率が高かった。 使っていた機材はSANYOだった。 その後(小学2,3年頃)、PC9801VMあたりが転がり込んできたのである。環境としては、SASIの20MBの外付けHDDとEPSONのドットインパクトプリンタとディスプレイのセットである。HDDのなかにはMSDOS2.xと一太郎3、花子が(マルチプランという表計算ソフトも入っていたような気も…)入っていたと。ひょっとしたらLotus 1-2-3も入っていたかもしれない。 いつかは覚えていないが、VMのあとに、PC9801VXが入ってきたのでそれで遊ぶようになった。そういうわけで、BASICが中途半端なままこっちに興味をもち、平行してさわるようになる。PC9801のほうはワープロや表計算、パソコン通信(後述)を主として使っていた使っていたと思う。(小学4年の時、理科の自由研究課題をワープロ書きしていた記憶がある。) 私の中では一太郎及び、Lotus 1-2-3 2.2J〜2.4RJ までが長いつきあいだった。Lotusが長いつきあいだったのは、パソコン通信を始めたのがきっかけである。当時、フォーラムにはいり、ファイルライブラリでゲームをダウンロードしていた時代。 こういうきっかけで、MS-DOSに興味を持ちはじめ、今は亡きICMのEOSYSTEMが普及し始め、それの為へのconfig.sys と Melcoのメルウェアのチューニングにはまる。後々、リースアップ品や会社で不要になったマシンを貰ってきたりして、PC9801DSとかXL2(ハイレゾマンセーなのに、対応ソフトやディスプレイがなかった)が手に入る。その次に、1FDに色々なゲームを詰め込み、autoexec.bat を使い、バッチファイルメニューをつくっていました。勿論、エスケープシーケンスなどを使ってカラフルなメニュー作りに没頭。 それだけじゃつまらんばかりに、当時人気ゲームだった、ぷよぷよのMSDOS版を購入したりして遊ぶが、、それだけではなく、Wizard にはまり、プロテクトはずしに萌える。そうすると、DISKCOPY A: B: が出来るようになり、ウハウハ。次に、HDDにインストールを試みようと無茶なことをしていた。それにしてもEOSYSTEMのファイラーも結構強力だったなぁ。プロテクトとか結構関係無しにコピーが出来たらしい。こういうふうにして、ぷよぷよをHDDにインストールをして、EOSYSTEM上から起動が出来るようになったが、STOPキーを押しながら、ぷよぷよを起動するとバグがでてきて、オプションでHARDにすると、敵が自殺をするというなんともはや・・・という光景。サタンまですぐにたどり着くことが出来、エンディングまで5〜10分もかからず…。まぁ、プロテクトはずしでみんなが挑戦をしたのは、管理工学研究所のとあるソフトウェアでしたが。松は好きだったけど松茸は嫌いだったな(謎)。桐は某DB(ゲーム付)を走らせるのに必要だったため、使っていたらしい。当時はVer4。言語がよく分からず挫折。独自志向が強すぎて、マスターするにも、それだけで職が有りそうな時代。桐を使えた人、尊敬するわーっ。因みに、不正行為に使うんじゃなくて、プロテクトをはずすというのが楽しみでブームだった時代。あくまでも誤解をしないようにお願いします。 PC9801DSが手に入ったころ、PC-VANや草の根BBSにはまり、ホストの開局を試みたりするようになる。小学6年の時にPCVANを解約しNiftyServeに乗り換えを行ったのもこの頃だったかも…。古いメールは10年以上前だったりします。あ、そうそう、SCSI1のICM 230SというMOドライブも入手したのはこの頃だなぁ。 当時のHDDって言えば、SASIの40MBが現役だった時代。お金を出せれば、100MBのSCSIのHDDが十数万円とか…。てことで230MBのMOをHDDとして使っていました。一枚あたりのメディア一枚当たり2000円だったしねえ・・・。後に一気にメディアの値段が下がったのも覚えている。そういえば、当時はTDKのメディアがすっごくよかったなぁ。マクセルはだめだめでエラー頻発して使い物にならなかった。勿論MOドライブは、HDDモードにジャンパを切り換えてね。てことで、リムーバルHDDの完成っ(違)。そこにWindows3.1を入れて走らせたり、ゲーム用ディスクとか、一太郎(アプリケーション)用ディスクとかに分けていましたね。おかげで、98からのデータのコンバートは非常に楽でした。その前はシリアルのクロスをつかって、DOSドライバを組み込んで9600bpsで通信をしてファイル交換していたのに・・・。当時は9600bps以上の速度に対応されておらず、486マシン当たりから19200bpsが対応されたらしい。なので、当時は9600bpsの時代。 そうそう、MSDOS6.xからデフォルトでMOドライブが扱えるようになったが、120MBのメディアとして認識出来なかったなぁ。230MBのメディアを入れても120MBでしかフォーマット出来ず、やっちゃうと、ローレベルフォーマットを数時間掛けてやらないと、230MBのメディアとして使えなかった。逆に120MBのメディアを230MBのメディアとしてローレベルフォーマットしたら230MBのメディアとして使えたし。謎だなぁ。てことで、ドライバーを入れてユーティリティーをつかって、結局ずーっと使っていたらしい。 Windows95をHDDモードのMOに入れようとしても、HDDと認識してくれずに、MOとして認識されたなぁ。 これがかなり厄介で、swapとかもMOに避難させることも出来なかったし、MO上にWindowsをインストールすることが出来なくて、泣いた時期。そのあと、頑張ってICMのSCSI 1GB(中身IBM)を購入し、使っていた。この頃はすっかりと、FM7/8は触らず98に完全移行。Windowsにも移行しつつあったが、ICMのようなファイラーが無く、WindowsのExplorerが使い勝手が良くなく、Windows上からEOSYSTEMのファイルマネージャだけを使っていた。エディタも便利だったし…。メモ帳なんて、糞ーっていう時代だったかも。 脱線しちゃったが、話を戻してみることにする。ちなみに、パソコン通信はMSDOS + まいとーくV2 だった。 NiftyのROAD3,4が安く2400bpsのほうが計算すると安かったため頑張る。既にこのときにはMICROSYSTEMの14400bpsのモデムを持っていたが、シリアルの速度が9600bpsだったし、Niftyの従量課金が高かったために諦める。ダウンロードをするときはもったいないなぁとおもいつつ、ROAD5をつかっていた。ROAD5は14400対応だったのに・・・。そういえば、あんまり使っていないと思われる、AM3:00〜AM9:00 までは従量課金の時間当たりが安くなっていましたよね。と言うことで規則正しい生活をしていました(笑) この後、InterQがダイヤルQ2でサービスを初め、頑張っていたときでもある。さすがにPC9801DSではつらいので、PC9801FA + Windows3.1 + TCP/IP + NNxx ( ←バージョン覚えていない。 )で頑張っていたかも。しかも、APが東京だったし、電話料金の安い時間帯を使っていた記憶。朝6時起きとかでね。NiftyのHyperRoadとかつかえば、べらぼうにたかかったし。。なので、メールはNifty、インターネットはInterQの時代があった。このとき恐らく小学生高学年。まだ、インターネットが普及する前。ハドソンのサイトをみてウハウハとしていたのもこの頃かも。懐かしい。 小学5年の頃に親がPC9821Neを購入し、私の獲物に後になることになるハメに…(^-^;) それと同時に、環境がWindows3.1 ベースになったが、MSDOSの方が使い勝手がよくMSDOSのほうが多かった。、ワープロとかはまだまだDOS版の一太郎4.3や5が現役だった。当時Windowsだから、、、って特に特別なことが出来るわけじゃなかったし…。アプリケーションもDOSベースだしね。 ちなみに、PC9821Ne が 手に入ってから、ほとんどの作業環境やパソ通が PC9821Neに移行した。PC9821Neは19200bpsが使えるしマンセーーーっ!!!でも、PC9821Neは拡張性が無くてしょぼーん。IDEの容量の壁があったり、メモリやCPU周りのアップグレードが出来なくて一番使いにくかったモデルでもある。Ne3が楽しい時期だったかもしれない。すこし、買うのが早すぎたね。と話をしていた(謎)PC9821Ne3 は AMDのK5が乗せれたしw中学校の頃 (平成7年〜平成10年)中学2年ぐらいの頃からインターネットのことでにぎわい始め、自宅ではインターネットの環境がなく、NTTのインターネット体験コーナーというのがあり、そこではまる。 平成9年から郵便番号が7桁になると言うことで、Microsoft Access 2.0 (当時Access95が全盛期)をつかい、住所録のソフトウェアを開発し、NiftyServeにシェアウェアで公開したのもこの頃。雑誌に掲載もされた経験がある。印刷機能やら、イロイロと付けて遊んでいた。実は、この数年前に、某選挙区の選挙管理名簿を Access 2.0 + Windows3.1 でシステムを作ったのがきっかけ。(ベースは父親が作っていた。それを後々引き継ぎ。) 高校生の頃 (平成10年〜平成13年)高校1年の頃に初めて自作PCを作成し、この頃からAT互換機をさわるようになる。スペックは K6-233 SOYOのマザー、メモリがsimmで96MB、HDDがIBMの6.4GB(このときに同時にNTT ME SOHO SL10のISDNルータを購入。 わたしの自宅はISDNが提供されてサービス開始と共に申し込みを行っていたようであり、いつ頃から使用されたのかは定かではない。 インターネットに接続されたのは、高校2年生の頃であり、それと同時にテレホーダイを契約し、128kbpsで通信を行っていた。使用ISPはまほろばである。当時128kbpsの対応しているISPは少なかったと思われる。 しばらくWindows環境にどっぷりつかってしまったが高校3年の時ぐらいからWindowsでwebサーバ等を立て始め、それがきっかけでレンタルサーバ等を行っている。 大学生の頃 (平成13年〜現在)元々,IRC #うにっくすとかにひっそり(?)と生息していたが,色々あり,wakatono様に拉致され port139のケーキオフに出没し、一躍名前が広がるようになる。後に,上京するたびにオフ会の毎日。その後,東京→長野→奈良 と一月半近く きっと、私の人生の道を狂わせたのは、私が、IRCを初め、IRCチャンネルの #うにっくす に出没し、port139という道に踏み外し、つながりが出来たのがきっかけだと思う(謎) 帰省後サクラのバイトを初め,裏情報を日記に書き,またまた2chや怪しいワールド,各種有名サイトにリンクされ,またまた名前が広がる。このときday 4000ヒット。さすがにISDN回線のサーバはつらく,限界を感じたひととき。 2002年にはADSLタイプ2を引き、AirH"も契約し、2003年にはBフレッツをひいたり。Summitを買ったり、LAN内を光化(1000Base-SX)を試みたり。 2004年1月には、WIDE Projectに飛び入り参加し、IRC-WG で活動を行う。それと同時に、WIDE CAMPに参加し、慶応大学、奈良先端大学の方々に出会う。この辺がきっかけとなり、大学院を志望しようと決心する。 本当に大学の頃にはイロイロとやってましたね。IPv6もいぢったり。詳細は日記を参照してくださいませ。
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